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2007/11/04

改めて活動をふり返る4

7. アフリカでの生活で、何か学んだこと、自分を変えたことはありますか。

 ここまでにたくさん書いてきたように,一言では語れないほど色々なことを学びました。先に書いたように,私は学生時代から20年以上も国際理解教育や開発教育に携わり,発展途上国や南北問題について人に語ってきたのですが,実際に自分がケニアで活動してみて,何と無知であったか,分かったふりをしていたか,改めて気づきました(まるでソクラテスのようですね)。私がここに書いた事柄にしても,それは私のたった一年間の経験を通して感じたり考えたりしたことに過ぎません。ケニアやケニア人は,もっと複雑で多様でしたたかです。実体験に基づく話はインパクトがあり,思わず信じてしまう説得力を持つものですが,常に一歩ひいて冷静に見る眼も持っていなければなりません。と同時に,自分の目で確かめてみること,自分が確信したことはやり抜く行動力を持つことも重要です。

私がケニアで出会ったのは,社会からも家族からも見捨てられた子どもたちです。そんな彼らの多くが,絶望的な状況の中,明日を夢見て勉強している姿に,私は教育の原点を見た思いがしました。そして日本にも,彼らほどではないにせよ,虐げられ自分に自信をなくした子どもたちが大勢いることに想いを馳せ,「ケニアでの経験を今度は日本で活かしたい」と考えるようになりました。

最後になりましたが,ケニア赴任中,私はほぼ毎日日本の家族と連絡を取り,それが私の心の支えでした。離れている方が,かえって息子とはよく話をしたように思います。これまで仕事中心の生活で,子どもたちにあまり父親らしいことをしてこなかったことを反省し,帰国後は積極的に子どもとの時間と会話を持つようにしています。

改めて活動をふり返る3

5. ケニアでのボランティア活動は大変だと思いますが、その中でも一番辛いこと、そして楽しかったこと、はなんですか。

 一番辛いのは,家族と離れること。青年海外協力隊員は単身赴任しか認められていません。2年間の任期中は,よほど特別な理由がない限り一時帰国も認められていません。ただし,今では世界中に携帯電話が普及しており,ケニアでも隊員は全て携帯が通じるエリアに赴任しているので,隊員間の連絡はもちろん,国際通話で日本の家族ともいつでも連絡を取り合えます。

楽しかったことは無数にあります。まず日本と違ってケニアでは自分の自由に使える時間がたくさんあります。私のように学校に派遣されている隊員の場合,週末に加えて学期ごとに1~2ヶ月もの休みがあります(ケニアは1月が新年度で3学期制をとっています)。この間は旅行三昧です。有名なサファリツアーやインド洋沿岸のリゾート地に行ったり,現地事務所の許可があれば任国外旅行(行ける国は限られています)だってできます。私もタンザニアでクリスマス・ホリデーを過ごしました。

ナイロビにある隊員連絡所(通称ドミトリー)での隊員どうしの交流も楽しみの一つ。年齢も職業も全く異なる人たちとケニアという“地の果て”で出会うなんて,奇跡としか言えません。「カカメガにサッカー王国を作る」「梅の街道を作る」など,彼らのギラギラした夢(野望といった方が適切かも知れません)を聞いているだけで楽しいものです。隊員どうし,特に同期の絆は驚くほど強く,帰国後も続いていく人が大勢います。

もちろんケニア人との交流も忘れられません。裏切られたり,衝突したり,なかなか理解してくれなかったり,辛いことの方がはるかに多いのですが,それをお互いに乗り越えて一つの仕事をするというのは,そのこと自体で十分楽しいことです。その中で,個人的に信頼できる関係を結ぶことのできた人もいました。そのことが帰国後の今も,ケニアにかかわり続けていきたいという自分のモチベーションになっています。

6. 発展途上国でのボランティア活動をした中で、先進国日本の人々に伝えたいことはありますか。

私たちは発展途上国,特にアフリカ諸国に対して大変狭く誤ったステレオタイプを持っています。アフリカの国と言えば「暑い」「貧しい」が2大イメージでしょう。でも実際にケニアに来たら,まず驚くのは素晴らしい気候と驚くほど発展した都市の姿です。

ケニアの気候は雨季と乾季しかなく,気温はほぼ一年中日本の5月(春)と10月(秋)のような快適な気候です(ただし,これは中央高地の場合で,インド洋沿岸は湿潤,東北部は乾燥地帯です)。クーラーも暖房も要りません。

また首都のナイロビは東アフリカ一の大都会で,人口300万人以上,高層ビルが立ち並び,足早に行き交う人々は先進国の都市でよく見られる風景です。慢性的な交通渋滞で大気汚染は深刻です。ホールセールスを行う大きなスーパーやお洒落なレストランにアウトレット・モール,いくつものスクリーンを持つ映画館やボーリング場,ディスコ,カジノなどの社交場。何と赤道直下なのにスケート場まであります。上でも書いたように,携帯電話もかなり普及していて,“お金さえ出せば”先進国と変わらない生活ができます。

その一方でナイロビには,アフリカ最大のキベラスラムもあります。ここには,貧困に苦しみ一日1ドル以下で生活する人々が80万人もいます。実はこのキベラスラムは,ンゴング・ヒルズという高級住宅街のすぐ隣に広がっています。このようにケニアは極端な繁栄と極端な貧困が共存する国なのです。

でも程度の差こそあれ,繁栄と貧困が共存するのは日本など先進国でも同じこと。最近では,日本でも低所得者と高所得者の経済格差はどんどん拡大しています。ただ普通に暮らしていると,そんな格差に気づかない,見えていないだけなのです。ケニアの場合,格差が発展の阻害要因ともなっているので否応なく対応を迫られていますが,私たちはどうでしょうか? 実は周りにも様々な格差があり,それで困っている人が大勢いるのに,気づいていないだけなのではないでしょうか?(それとも,わざと見えないふりをしている?)

「ケニア」と聞くと遠くの国のことで自分たちと関係ないと思いがちですが,そこで起こっている問題は自分たちの周りでも起こっていることなのです。そうした足元のちょっとしたことに目を向け行動していくことが,結局は世界の大きな問題の解決にもつながっていくのだ(よく言われる“Think globally, act locally”ですね)ということを,私はこれからも日本の高校生に伝えていきたいと思っています。

改めて活動をふり返る2

3. ケニアでは具体的にどのような活動をしていましたか。

  私が配属されたのはケニア中央高地,ケニア山の麓のオザヤという街にある少年更正院でした。少年更正院はケニア国内に11箇所あり,ストリートチルドレンや孤児など何らかの理由から親元で生活できなくなった子どもたちを収容し,教育と必要な保護を与え更正させる施設です。

  私はそこで体育(Physical Education)の授業を教える傍ら,「日本語クラブ」「野菜クラブ」「新聞クラブ」の3つのクラブ活動を指導していました。それまで生徒たちは,放課後の時間帯を広場でサッカーに興じたり何となく遊んで過ごしていましたが,もっと有意義に過ごさせるための方策を考え実施することが私のミッションでした。

  この本来の要請内容に加え,私は現職教員としての経験を活かし「心の問題を持つ生徒へのカウンセリング」を実施したり,中等学校へ進学するために必要な学費を援助する奨学金組織=KESTESの役員等をしていました。ただ任期途中で帰国することになったため,いずれも活動が緒についたばかりだったのが心残りです。

4. ケニアの人々と接する中で、どんなことを感じましたか。

海外で生活すると,相反する2つのことを感じます。一つは,国や民族が違っても人間のすること・社会は一緒であるということ。学校等はその典型です。制服や校則があることはもちろん,月曜日と金曜日の朝にある全校朝礼や,毎朝行われるスタッフ・ミーティング,黒板が前にあってチョークで必要事項を書いて説明するスタイルなど,日本と全く同じです。また音楽やファッション等も多少の違いはありますが,アメリカでも日本でもケニアでも若者文化は驚くほど似ています。

一方,日本との違いを痛感することもしばしばです。一番大きいのが時間の感覚の違い。約束の時間に1時間以上遅れること等日常茶飯事。公共交通機関でさえ,まともに時間通り運行すること等あり得ません(唯一,飛行機だけはほぼ正確に飛びます)。学校の授業も先生が来ずに自習になることがよくあります。そもそも1週間のうち半分出勤していればいい方ですし,出勤はしていても遅刻したり午前中でいなくなったり,とにかく“真面目な”日本人からは考えられないことです。

もう一つ,治安も大きく違います。青年海外協力隊員は,できるだけ現地の人と同じレベルの生活をするように現地生活費も抑えられている(赴任国によって異なり,ケニアの場合1ヶ月430ドルです)のですが,それでも任国で接する低所得層の人たちにとっては,妬ましいようです。そもそも黒人ばかりの街では日本人も「Mzung(スワヒリ語で“白人”のこと)」ですから,常に好奇の目で見られているのです。家に泥棒に入られたり等,直接の被害にあった隊員は少ないですが,ミニバスの中でスリにあったり,同僚やカウンターパートからお金をせびられるということは,よくあります。

悪いことばかりではありません。日本ではとっくに失われた“人間の絆の深さ”がケニアにはまだまだ残っています。私が特にすばらしいと感じたのは,年上を敬うこと(スワヒリ語でMzeeと言いますが,単に年寄りを指すのではなく,知恵のある者という意味を含みます。年上に対しては挨拶まで異なります)と,助け合いの精神(スワヒリ語でHarambeeと言って,病気や冠婚葬祭,進学など急にお金が必要になった時には,家族・知人・友人が募金活動を組織してくれます。自分の全然知らない人のハランベーでも募金はめったに断りません)です。

改めて活動をふり返る1

 アメリカ在住の友人(現地で高校教師をしています)が,「協力隊やケニアでの活動について質問したい」と生徒が言っているとのことで,アンケートを送ってきました。最初は面倒だなと思っていましたが,答えることで活動について改めてふり返ることができ,いい機会になりました。

1. 海外青年協力隊に参加しようと思ったのは何故ですか。

 ①若い時からの夢でした。教師になったのも,途上国の人々との交流を通して自分たちの生活や生き方を見つめ直す教育(開発教育)を実践したかったからです。

 ②結婚したり子どもができたりして,なかなか夢を実現できないまま,ふと気がつくと40歳手前になっていました。青年海外協力隊は満20歳から40歳までと年齢制限があるので,ぎりぎりでした。ここで応募しないと後悔すると思い,決断しました。

  注)40歳から65歳まではシニアボランティアがあるのですが,学校教員は参加できません。法律で青年海外協力隊員のみ派遣が許されています。

2. 青年隊に参加するのは、年齢的にも、生活面でも、いろいろと大変だと聴きますが、日本に帰国した後の生活は保障されますか。また、ケニアに渡る前は何か別のボランティア活動をしていましたか。

 ①私の場合,上でも触れましたが一般の参加ではなく「現職教員特別参加制度」による参加です。応募できる職種は限られますが,一次試験を免除(代わりに都道府県教育委員会による選考),派遣中は研修扱いとなり給料も保障(全額ではありません。神戸市の場合,条例で7割と決まっています),通常2年3ヶ月(現地で丸2年)のところ派遣前研修を含めて2年間(3月末に帰国し,4月からの新年度に間に合うように)など,数々の優遇がなされています。

  注)この制度が利用できるのは,公立学校の教員(地方公務員と国家公務員)だけです。また協力隊員の募集は年4回行われていますが,この制度を利用できるのは春募集(1次隊)に限られます。

 ②これに対し,それ以外で参加されている隊員(教員でも「現職教員特別参加制度」以外で参加している人もいます)の場合は,何の保障もありません。日本でも最近は大学院進学のための休職やボランティア休暇制度を整える企業が増えてきてはいますが,2年以上もの派遣を許してくれるところは,残念ながらまだまだごく少数です。したがって前職のある隊員は,多くが退職参加です。帰国後は,自分で求職活動をしなければなりません。しかも,多くの企業では青年海外協力隊員としての途上国での経験をプラスに評価してはくれません。「和を乱す自分勝手な奴」と思われてしまいます。ですから帰国後再就職しても協力隊経験を活かすどころか隠している人も大勢います。

  注)協力隊を派遣しているJICA(国際協力機構)でもこの問題は深刻に捉えていて,最近では帰国時の研修を強化したり再就職を斡旋するアドバイザーを各都道府県においたりしていますが,まだ十分とは言えません。

 ③実はケニアに行ったのは2回目です。協力隊員として派遣される10年前(1996年),JICAの「高校教師海外研修」に選ばれ,夏休み中に10日間ほどケニアとタンザニアで活動する協力隊員や専門家のプロジェクト・サイトを回りました。この時はよもや自分がもう一度協力隊員として来ることになろうとは思いもしなかったのですが,諺にあるとおり「アフリカの水を飲んだ者はアフリカに帰ってくる」のかも知れません。

   この「高校教師海外研修」以外にも,1995年には神戸YMCAの「アジア・アフリカ大好き先生」に選ばれてタイ北部での2週間のワークキャンプに参加したり(タイYMCAの若者たちと共に山岳少数民族の手工芸品を売るクラフトショップを建てました),1999年と2005年にはイギリスのヨーク大学で行われた「グローバル教育セミナー」に参加したりしました。また神戸を中心に活動しているNGOや国際協力団体(アジア福祉教育財団・難民事業本部や神戸YMCAJICA兵庫)と国際理解教育に関心を持ち実践している教員たちで「神戸開発教育研究会」を1991年に立ち上げ,2ヶ月に1度のペースで15年以上セミナーやワークショップを開催しています。

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